遅くなりましたが「泥の子と狭い家の物語」無事に終演しましてはや1週間が過ぎました。

twitterやFacebookにだけご挨拶書いて安心してました。

いやー。
なんかねぇ。
盛りだくさんでした。

気づけたことの大きさに、たぶんこの先じわじわ気づくのかも。

酒井敏也さんとの夫婦役。
あんなに緊張していたのが嘘みたいに酒井さんと普通に話し、ごはんを食べ、芝居をしてました。
本当に懐の深い方で。
とても優しい方で。
テレビではわからない力強さに満ちた芝居をされる方でした。

ご一緒できたしあわせ。

そして娘の小崎愛美理ちゃん。
彼女のパワーと輝き。
素敵だったなぁ。
爽やかな嫉妬をしました。
あんな若手のいることが嬉しくて、ウズウズとして、負けてる場合ちゃうぞ、と。

ラストシーン、言葉にならないラップに引っぱられないように、涙をおさえることに必死でした。

なにもない顔をして、彼女を抱きしめること。
そのラストがわたしのゴールだったのです。

そんな素晴らしい夫と娘のあいだで、わたしはどんな妻に、母に、見えたでしょうか。

今回ねー、すごくありがたい言葉をたくさんいただきまして。
共演者のお客様がわたしのお母さんをほめてくださって。
また、観に来た友人、知人が興奮して迎えてくれたことの多かったこと。

劇団子の後輩、高島くんと、結川ちゃんにはハグされました、ええ。
そんなこともあってしみじみ実感したこと。

役者(わたし)の気持ちなんかいらん。

てこと 笑

心を込める、気持ちを込める。
それがいかにじゃまなものか。

あ、いや、いるんですよ。
それが必要なこともあるんですよ。

だけど、どっぷり役者自身が感情に溺れてたらダメなんだって。
それは役者の感情で、役の感情じゃないから。

役の感情が動いてるときって、中の人の心は逆に凪いでいるのだなって。

わたしの場合はそうなのだなって、実感しました。

なりきる、という言葉があるけれど、自分の心が揺れまくってるときは、むしろなりきってない。自分自身が揺れているから、役から離れてる。

メモ的に書きなぐりますが、これはあくまでもわたしの場合で、他の役者さんにはその方の正解があるはず。

わたし、わりと自分に寄せるタイプだったんですね。役の感情を。
そうすると気持ちを込めた気分にはなるけど、結果として役じゃない気持ちが動いてたのかもなーって。

もっと冷静に外側から操っていていいのかもしれない。

そのほうがいろんなルートが見つかるし、楽しんで悩める。

そんな発見。

まだまだ答え探しの旅は続くけど、今まで見えないなにかが見えました。

そしてそのあとの劇団子稽古で「愛知のオンナ」の瞳ちゃんをやりまして、さらに実感。


今まで見えなくて、難しいとばかり思っていた瞳ちゃんが、初めて自分に寄ってきてくれた気がしたのです。
正解、不正解の前に、今までは寄せてたからわかんなかったのか!みたいな、目からウロコ的な衝撃があったのでした。

あと瞳ちゃんのセリフ「頑張ってたつもりになってただけ」。
この破壊力よ。
そんな役者だったなー、自分って。

そんな、ひとつなにかを越えたかもしれない、いま。

とか、おおきなことを書いてしまった。

しかしほんとなんだ。
この感覚をメモっておきたかったんだ。

泥の子と狭い家の物語

同世代の女優さんもいてたくさん影響受けました。
じりじり焦りました。

パワーのある方、若さの勢い、そんなたくさんのきらめきに囲まれた稽古場でした。ありがとうみんな。
素敵で愛しい座組でした。

わたしもまだまだ丁寧に積み上げていこう。

真夜中にふつふつと、さやさやと、長文を失敬しました 笑